幕末の名匠 石川雲蝶

大龍和尚様と石川雲蝶

西福寺の開山堂は、江戸末期の嘉永5年(1852)に起工しました。
この開山堂を建立し、構図を決めて石川雲蝶に彫刻絵画の装飾を施させたのが、
当寺23代目の住職、蟠谷大龍(ばんおくだいりゅう)和尚様です。33歳という若い住職でした。

大龍様は、この雪深く貧しい農村地域の人々の心の拠り所となるお堂を建てたいという前住職の志を引き継ぎ、
お釈迦様や道元様の教えこそが人々の心を豊かで幸せに導いて下さると信じて、
是非この開山堂にも道元様の世界を再現したいと考えました。
そこで、すでに三条に入り、本成寺や栃尾の貴渡神社に彫刻を施し活躍している雲蝶のうわさを知り、
この魚沼に招き入れました。雲蝶39歳の時です。

歳の近い二人はすぐに意気投合して、開山堂にかける熱き仏道心を大龍様が語れば、
雲蝶はその思いをよく理解し、彫刻という形にして見事に表現してくれました。
また、雲蝶にとってもこれだけの大きな仕事を一人で任せられるのは初めてのことで、
大龍様の大きな信頼のもとに思う存分仕事をし、彫刻家として大輪の花を咲かせています。
大龍様との出会いは、雲蝶の人生に大きな影響を与えました。

大龍和尚様と石川雲蝶

しかし、歳の若い住職が貧しい農村地域に宗教性芸術性の高いお堂を作るにあたり、大変な障害や苦悩がありました。
時は幕末の混乱期、人々は様々な考えを持ち始め、度重なる天災で貧富の差も激しくなっていました。
立派な開山堂が完成すると、地域の人々は喜ぶ一方で寺ばかりが贅沢をしているという心無い噂も広がります。
大龍様はそんな不穏な状況を自分が身を引くことで打開します。
開山堂の落慶式(安政4年)に導師となられることなく住職の座を退き、隠居として他寺へと移られました。

大龍和尚様と石川雲蝶

しかし、二人の交流はその後も続き、
雲蝶はひとつ仕事を終えると大龍様のもとへやって来て、語り合ったということです。
(大龍様63歳亡。雲蝶はその9ヶ月後70歳で亡くなっています。)

大龍様が西福寺を出られ、その後の生涯をひたすら仏行に励まれた正円寺様(同市内)には、
雲蝶が大龍様のために製作した、勇壮且つ慈愛に満ちた仏像の数々がお奉りされています。

大龍様と雲蝶は、人生のよき理解者であり相談相手だったと思われます。
開山堂の彫刻は大龍様の仏道にかける思いと、雲蝶の実直な人柄と確かな技が生み出した合作です。
二人の情熱が一体となり完成したこのお堂は、後の世までも末永く人々に感動を与えてくれています。

大龍和尚様と石川雲蝶

赤城山西福寺

名匠 石川雲蝶

雲蝶は、本名を安兵衛といい、文化11年(1814)江戸雑司が谷で生まれました。
弱冠20歳前後で江戸彫石川流の奥義を窮め、苗字帯刀を許されたといわれています。

越後へとやって来たのは32歳頃。
三条本成寺の世話役、内山又蔵氏の依頼を受け、本成寺に数々の彫刻を制作しています。
その後、三条を拠点に近隣で制作活動をしているうち、
内山氏の世話で三条の酒井家の婿となり、越後人となります。

ちょうどその頃、開山堂の建立を計画していた当寺の大龍和尚様が
雲蝶のうわさを聞きつけて魚沼に招き入れ、
雲蝶と当寺のお付き合いが始まります。雲蝶39歳のときです。
開山堂は、嘉永5年(1852)起工、安政4年(1857)落成ですから、
雲蝶はわずか5年数ヶ月で開山堂内外の彫刻絵画漆喰などの大作を仕上げているのです。
また時期を同じく、プライベートでも長女、長男を儲け、二児の父親になっているのですから、
雲蝶にとって名実共にこの頃が人生の黄金期といえましょう。

この開山堂の大作を機に、あちこちから依頼がかかり、雲蝶は越後の名匠となっていきます。
当寺とのお付き合いもその後も続き、山門(白門)の門扉の彫刻と仁王像、
山門(赤門)の前の火除け地蔵と禁葷酒、本堂の襖絵の数々を製作しています。


雲蝶作品の楽しみ方(西福寺流)

それでは、雲蝶はどんな人だったのでしょう。
探究心旺盛で努力家であったことは間違いないと思われますが…
残念なことに、雲蝶の住まいは三条大火(明治13年)で全焼し、
雲蝶の菩提寺である本成寺も明治26年の火災で彼の作品や記録を焼失しています。
越後各地に作品が残っても、彼自身の写真、似顔絵、性格など記録に残るものが何も無いのです。

作品が素晴らしければすばらしいほど、
人としての雲蝶はとてもミステリアスで魅力的に思えてなりません。
雲蝶没後140年近く経つ今となっては、彼と同じ時代にいた生き証人はなく、記録もない訳ですから、
作品にふれて感動した私たちが「雲蝶とはいったいどんな人だったのだろう. . .」
と思いをめぐらすことはとてもロマンがあり雲蝶作品の楽しみ方のひとつだと思います。

自分自身の雲蝶像をイメージしながら作品をご覧下さい。
すると、何回でも拝観する度に新しい発見と出会いがあります。

雲蝶は越後の各地に作品を遺しています。
その場所の環境や雰囲気によって作風がガラリと変わります。
その場にぴたりとはまった作品に仕上げる雲蝶の腕は、まさに天才と言えるでしょう。

雲蝶作品の楽しみ方(西福寺流)

赤城山西福寺
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